「無事」
師走になると思い出す言葉です。
過ぎた一年を振り返り、災難なく無事安泰に過ごせたという穏やかな感謝の気持ちを表わし、
それと同時に忙しい師走であっても、決してあわただしくせず、穏やかな気持ちで
無事に新年を迎えられるようにという願いがこめられているようです。
特に年の瀬にになると茶席には好まれてよくこの禅語が掛かります。
しかし『臨済録』にある本来の禅語としての「無事」は、
上記のような「平穏無事」を意味するのではないようです。
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◎「無事」
「放てば手に満てり」「求心 歇む処 即ち無事」
(「はなてば てに みてり」「ぐしん やむところ すなはち ぶじ」)
「無事」とは、求めなくてもよいことに気づいた安らぎの境地のこと。
臨済禅師は「仏、悟り、安心」、あるいは「幸せ」を自分の外に追い求める愚かさを厳しく戒められました。
それらは求めるほど遠くへ逃げる。
求めるということは目の前の「仏、悟り、安心、幸せ」が己が目に入っていないのと同じこと。
求めずとも、既にそれに抱かれ、生き生きと輝いている自分への気づきこそが「無事」だということです。
さらに、臨済禅師は次のように無事を解いています。
「但だ造作すること莫かれ、祇だ是れ平常なれ」
(ただ ぞうさすることなかれ、ただ これびょうじょうなれ)と。
「造作することなかれ」とは、[あれこれ思いをめぐらして、ああでもない、こうでもないと
無駄にむずかしく思い煩うことをしないで]、と解釈できるでしょう。
臨済禅師の教えは、
「当然のことを造作なく、当然にやることが平常であり、それこそが無事」ということでしょうか。
いついかなるときも、造作なく、気負わず、あるがままに、それでいて臨機応変に対処できるように・・・。
この禅語を心にとめながら、「求める心」と「造作する」自分に気づくことが
私の師走の反省です。