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旧バタシー発電所再開発のこと~ロンドン~

昨日の新聞に「テムズ河畔にアジア資本」という見出しをみつけ何?何?と読み進めてみた。

よると、1930年代から80年代までの首都の電力を支え、
今は廃墟となっている旧バタシー発電所とその付近が再開発されるとのこと。
その資金はマレーシア政府が株を保有する複数の不動産開発・投資会社及び同国の年金基金。
総事業費は実に80億ポンド(約1兆2000億円)という。

高さ60メートルの天井もないレンガ建築の穴だらけの壁、むやみに高い4本の白い煙突。
何のとりえもなく今は無残な姿になっている建物の付近は
捨て犬や捨て猫のほかに近づくものもないという状況。
その旧発電所を修復し、一帯に約300の店舗と1万5,000人が働ける事務所スペースと
約5000世帯が入る高級マンションに生まれ変わらせるのだから相当大がかりな再開発事業だ。

新聞記事は
「世界に植民地を抱えた英国は今、世界中から移民と投資家を引き寄せる。
この10年で河沿いに出現したビル群の多くはアジアや中東の資本が築いてきた。
英国が二の足を踏んできたロンドンの大型都市開発をアジア資本が丸ごと担い、
英国人が恩恵を享受する。富を蓄えた「地球の東側」の世界がかつての
支配者側の開発を手助けする21世紀世界の力関係の逆転の構図が、ここに垣間見える」
と〆られていた。


旧バタシー発電所のある場所はサウスケンジントンやチェルシー地区の対岸にあたる。
昨年サウスケンジントンでホテルをとり、移動の拠点にしていたが、対岸には足を向けなかった。
地図にも情報誌にも見るべきものが掲載されていなかったからだ。
今度もしロンドンを訪れる機会があったらそのときは大掛かりな再開発も終わり
地域は生まれかわっているだろうか。

ともあれ昨年歩いたサウスケンジントン付近は本当に美しいレンガの建物が並ぶ街並みだったなぁと
懐かしく思い出すのでした。

きっとあの人も、あの子も思い出すだろうなぁ、この街並み!

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by haijikg7 | 2013-08-18 23:00 | 2012英国 | Trackback | Comments(0)

茗荷

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実家には毎年たくさんの茗荷がなります。
私の子供のころからずーーっとです。
ですから我が家では外で茗荷を購入することがあまりなく
梅雨明けごろから必要な時にポキポキともぎっています。

毎年肥料をやるわけでもなく、除草するわけでもなく、
放ったらかしの茗荷エリア。

いつからあるのかと母に尋ねると
「お祖父さんが若いころから」と多少話を盛って(笑)答えていました。

(そんなはずないやろ?え?もしかしてあるの?そんなこと・・・。)
真偽のほどはわかりません。


ともかく。
我が家では素麺にも、お蕎麦にも、お刺身にも、和え物にも
夏は茗荷、なのです。



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それはそうと、「茗荷」ってなんで茗荷っていう字を書くのかを知ったのは落語の噺を聞いたからでした。


**********

大昔、お釈迦様がインドの祇園精舎でお弟子たちに説法をなさっていたころ。
お弟子のなかに周梨槃特(すりはんどく)という人がいました。
周梨槃特は兄と共にお釈迦さまの弟子になったものの、物覚えが極端に悪く、
自分の名前まで忘れてしまうため、お釈迦さまは首に名札を掛けさせました。

しかし名札を掛けたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚え続けることができませんでした。

その後、死んだ周梨槃特の墓のまわりに見慣れない草が生えてきました。
そこで 「彼は自分の名前を荷なって苦労してきた」 ということで、「名」を「荷なう」ことから、名の字に艸(くさかんむり)を付けて、この草を茗荷(ミョウガ)と名付けました。

**********

というくだりが噺の中にでてくるのです。


この話には仏教的な教えもあります。


**********

周梨槃特(すりはんどく)は兄と共にお釈迦さまに弟子入りしましたが、
生まれつき大変物覚えが悪く、お経の一行も覚えられません。
自分のあまりの愚かさを嘆いた周梨槃特はお釈迦さまに破門を願い出ました。
しかしお釈迦さまは

「自らの愚かさに気付いたのだから、お前はもう愚か者ではない」

と諭されました。そして、箒とちり取りを与えて、

「周梨槃特よ、お前はお経を覚えなくてよい。その代わりに、これで毎日修行場の掃除をしなさい。
ただし、掃除のあいだ『塵を払え』と唱え続けなさい。これならなんとか覚えられるでしょう」

と教えられました。

周梨槃特はその日から毎日欠かさず掃除を続け、一心に 「塵を払え、塵を払え、・・・・・」 と唱え続けました。
そしてある時、お釈迦さまから

「塵には眼に見えるものと眼に見えないものとがあるのですよ」

と教えられて、真に払い除くべきものは自分の心の中の塵だ、と気付きます。

こうして周梨槃特は翻然と悟り、知的障害を乗り越えて仏心を体得した尊者となりました。
そして周梨槃特が死んだあと、墓のまわりに生えたミョウガは悟りのシンボルになりました。

***********



先日実家の庭を掃除しながら私はこの話を思い出していました。
掃除をしていると心が清められる思いがするのはこういうことなのだろうなと思います。
部屋や庭が雑然としていると汚れているのは部屋ばかりでなく、
心の塵が溜まるので物事が良い方向に向わないのでしょうね。


周梨槃特のように尊者となるほどに掃除は行き届きませんが、
食べ過ぎると「物忘れをする」と俗世で言われるこの茗荷。

少しいただいて暑さを忘れたいものです。


母に作るお惣菜にも、茗荷をあしらっていた夏も、もう暦の上ではおしまい。
今日は立秋。

けれどまだまだ暑い日が続きますね。


この夏作った茗荷を使ったお料理のひとこま。

穴子と胡瓜と枝豆の酢の物 
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アボカドと帆立貝柱の山葵醤油和え  茗荷を添えて
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by haijikg7 | 2013-08-08 23:30 | いただきます | Trackback | Comments(6)

冷製茶碗蒸し

友人達が遊びに来てくれました。
「遊びに」というのは表向きで、実は私の為に食事を作りに来てくれたのでした。

介護に慣れてきたということは介護に疲れも出てきたということで、
それを察知した友達が企画してくれ、急遽数人が集まってくれたのでした。

決して近郊とはいえない遠い街から重い荷物をリュックに詰めて
暑い中をはるばるとやってきてくれました。



私は自分で自覚している以上に頑張ってしまう性質のようです。
時々そんな風に人から言われるので早め早めの養生を心がけているのですが、
友人(達)の目にはもう一呼吸早めに休むようにすればいいのに、と写るようです。
実際そうなのかもしれません。
「辛い」と思う手前で息を抜いたり、人に頼ることができれば危なっかしくないのでしょうけれど
何かをやっていると自分の限界が延びるような妄想にかられて(笑)どこまでも走りぬけようとするところに
私の危うさが見え隠れするのだと思います。

そんな性格をよく知る友達は
「無理しないで、って思うけれど無理してでもやりたいことなら、それも含めて応援するよ」と言ってくれました。
そんな心強い理解を遠く近く感じながら毎日を過ごしているこの頃。
ありがたいことです。


友人達の企画は、いつも人に(母に)してばかりでは私の泉が枯れてしまうから
たまには誰かにしてもらうことも必要だよ、ということでしょうか。

実際に人に作ってもらうなんて母の退院後初めてのことで
作ってもらっているのを食卓で待つワクワク感、久しぶりだなぁって思いました。
食事を待つ愉しみってこういうことだったのかと再認識しました。

そして人が作ってくれるものはなんて滋味深いのだろうと思ったのでした。

どんなお料理かということも大切ですが食事は誰に作ってもらったのか、
誰と一緒に食べるのか、その方が大切なんだと思いました。


その夜、自宅マンションに泊ってくれた友人達に私は自分の話をしました。
家庭の事情のこと、家族のバランスのこと、今までに起こった家族間の出来事など。

今まで私は家族のことをあまり人に話したことはありません。
隠しているというわけではないけれど、
人にはそれぞれに事情があるものだから改めて話すこともないような気がしていたのでした。

時々質問や相槌を挟んで友人達は長く長く話をきいてくれました。


「はいじさん、変わりましたよね。前は絶対にご家族のことは話さなかったのにね」
と言われました。
そのとき私は「そうかなぁ」と言っただけでしたが本当はそんな変化がなぜ起きているのか私には解っていました。
それは私の周囲に「私を理解しよう、理解したい」と思ってくれる人の数が増えたからだと思います。
いえ本当は前からそうだったのかもしれませんが、私の気兼ねがそれを許さなかったのだと思います。
そして今回来てくれた友人達の存在はいつの間にかとても大きくなっていたのだと思います。




週末大急ぎで来て帰っていった友人達を見送って私はひとり空を見上げました。
同じ空の下で理解しようとしてくれる人がいる。
一方で理解してほしいと願い近づいても、振り向いてくれない人もいる。

こんなに大きくて広い空なんだから、どんな人と袖を触れすれ違っても当たり前のことなんだ。
この空の下のどこかで、思い合っている人が私にはいて、それはすごく嬉しいことなんだ。

そう思いながら上を向いていると長い間空を見上げていなかったことに気づきました。
見ているつもりでもそれは目に入っていただけで「見よう」という気持がなければ見えないものがある。
同じように「聞こう」という意思がなければ真実の声さえ聞き逃してしまう。

いつも心穏やかに、素直に生きよう。

当たり前のことに気付かないことの愚かさこそが心を小さくするんだなぁと思い、母の元へと車を走らせました。
いつもと同じように母がいて、いつもと同じように実家の台所にたって、
いつもと同じように家事をしましたが気持はいつもとは違っていました。


人に作ってもらうってこんなに幸せなことなんだね。
人に作れることってこんなに幸せなことなんだね。

昨日、友人達のお料理の材料の残りで作った冷製茶碗蒸し。
す も入らずに上手に蒸せて、作った私が嬉しいと感じました。
そして母にも「作ってもらう幸せ」が届いていると思います。
私がそれを感じたように。


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by haijikg7 | 2013-08-08 05:30 | 思い | Trackback | Comments(4)