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冷製茶碗蒸し

友人達が遊びに来てくれました。
「遊びに」というのは表向きで、実は私の為に食事を作りに来てくれたのでした。

介護に慣れてきたということは介護に疲れも出てきたということで、
それを察知した友達が企画してくれ、急遽数人が集まってくれたのでした。

決して近郊とはいえない遠い街から重い荷物をリュックに詰めて
暑い中をはるばるとやってきてくれました。



私は自分で自覚している以上に頑張ってしまう性質のようです。
時々そんな風に人から言われるので早め早めの養生を心がけているのですが、
友人(達)の目にはもう一呼吸早めに休むようにすればいいのに、と写るようです。
実際そうなのかもしれません。
「辛い」と思う手前で息を抜いたり、人に頼ることができれば危なっかしくないのでしょうけれど
何かをやっていると自分の限界が延びるような妄想にかられて(笑)どこまでも走りぬけようとするところに
私の危うさが見え隠れするのだと思います。

そんな性格をよく知る友達は
「無理しないで、って思うけれど無理してでもやりたいことなら、それも含めて応援するよ」と言ってくれました。
そんな心強い理解を遠く近く感じながら毎日を過ごしているこの頃。
ありがたいことです。


友人達の企画は、いつも人に(母に)してばかりでは私の泉が枯れてしまうから
たまには誰かにしてもらうことも必要だよ、ということでしょうか。

実際に人に作ってもらうなんて母の退院後初めてのことで
作ってもらっているのを食卓で待つワクワク感、久しぶりだなぁって思いました。
食事を待つ愉しみってこういうことだったのかと再認識しました。

そして人が作ってくれるものはなんて滋味深いのだろうと思ったのでした。

どんなお料理かということも大切ですが食事は誰に作ってもらったのか、
誰と一緒に食べるのか、その方が大切なんだと思いました。


その夜、自宅マンションに泊ってくれた友人達に私は自分の話をしました。
家庭の事情のこと、家族のバランスのこと、今までに起こった家族間の出来事など。

今まで私は家族のことをあまり人に話したことはありません。
隠しているというわけではないけれど、
人にはそれぞれに事情があるものだから改めて話すこともないような気がしていたのでした。

時々質問や相槌を挟んで友人達は長く長く話をきいてくれました。


「はいじさん、変わりましたよね。前は絶対にご家族のことは話さなかったのにね」
と言われました。
そのとき私は「そうかなぁ」と言っただけでしたが本当はそんな変化がなぜ起きているのか私には解っていました。
それは私の周囲に「私を理解しよう、理解したい」と思ってくれる人の数が増えたからだと思います。
いえ本当は前からそうだったのかもしれませんが、私の気兼ねがそれを許さなかったのだと思います。
そして今回来てくれた友人達の存在はいつの間にかとても大きくなっていたのだと思います。




週末大急ぎで来て帰っていった友人達を見送って私はひとり空を見上げました。
同じ空の下で理解しようとしてくれる人がいる。
一方で理解してほしいと願い近づいても、振り向いてくれない人もいる。

こんなに大きくて広い空なんだから、どんな人と袖を触れすれ違っても当たり前のことなんだ。
この空の下のどこかで、思い合っている人が私にはいて、それはすごく嬉しいことなんだ。

そう思いながら上を向いていると長い間空を見上げていなかったことに気づきました。
見ているつもりでもそれは目に入っていただけで「見よう」という気持がなければ見えないものがある。
同じように「聞こう」という意思がなければ真実の声さえ聞き逃してしまう。

いつも心穏やかに、素直に生きよう。

当たり前のことに気付かないことの愚かさこそが心を小さくするんだなぁと思い、母の元へと車を走らせました。
いつもと同じように母がいて、いつもと同じように実家の台所にたって、
いつもと同じように家事をしましたが気持はいつもとは違っていました。


人に作ってもらうってこんなに幸せなことなんだね。
人に作れることってこんなに幸せなことなんだね。

昨日、友人達のお料理の材料の残りで作った冷製茶碗蒸し。
す も入らずに上手に蒸せて、作った私が嬉しいと感じました。
そして母にも「作ってもらう幸せ」が届いていると思います。
私がそれを感じたように。


冷製茶碗蒸し_a0135439_1581161.jpg

by haijikg7 | 2013-08-08 05:30 | 思い


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